スポンサーサイト
- --/--/--(--) -
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事のURL | スポンサー広告 | ▲ top
変わることと、変わらないこと
- 2008/06/28(Sat) -
前回の記事は、まるで「変化」しつづけていくことばかりを肯定するような内容のものになってしまった。
だからというわけではないのだが、今回は逆の視点からも見直してみたいと思う。

劇団印象派のつくる芝居は、というよりも、僕の書く脚本は、はっきりと目に見えるくらいにわかりやすく変化していると思う。
実際に、観客からもそういう意見が多い。

テイストが違う、ジャンルが違う、作風が違う、その評価の仕方は様々だが、それは言葉の違いだけであって、意味するところは同じだろう。

それが必ずしもいいことであるとは限らない。
少なくとも、観客の視点から考えれば、それぞれの好みというものに左右されるところもある。

毎回同じテイストで、劇団印象派はこういう芝居をつくるところだという認識が共通のものとなれば、自然とそれを好む観客に落ち着く。

それは僕ら劇団の人間にとっても固定の客層をつかめるし、観客にとってはある種の安心感が得られる。
そして、それが次第に深まっていくと、熱心な観客陣に支えられる安定した劇団のカラーを生み出せる。

そのことは、劇団を運営していく上で、捨てがたい事実ではある。

しかし、僕を含めて二十代前半の、世間からはまだまだ雛鳥扱いの若者たちが、現時点で観客の絞り込みに走るのは正しいことなのだろうか。

観客の絞り込みは、即ち作風の絞り込みである。

それは、現実的な面では安定を生むかもしれない。
しかし、それと同時に、様々な可能性を否定することではないのか。

僕らにはまだ、「どういった種類の人間と出会いたい」といった明確過ぎる目的ではなく、漠然と「多くの人間と出会いたい」という目標を掲げてもいいのではないか。
寧ろ、そのほうが自然なことなのでは……

こういう意見を口にすると、僕の青臭さが滲み出てしまって、少しばかり恥ずかしいのだが。

それでも、そういう青臭いことを掲げる反面、その目標を少しでも現実的なものにする為には、意外とシビアに論理的な思考を働かせなければならないこともわかっている。

「才能とは、夢を見続ける力のことである」とは鴻上尚史の言葉だが、その「夢を見続ける」為には、根拠が必要となる。その根拠とは、どこまでいっても論理的なものなのではないだろうか。

話がだいぶ逸れてしまった。本題に戻ろう。
今日のテーマは、「変わることと、変わらないこと」

まず最初に、僕自身の作風の変化について書いた。
話をもっと深めて、それでは僕自身の描こうとするテーマはどうか。

それは、一貫して変わっていないと思う。僕の書く作品も、劇団印象派がつくる芝居も。

以前にも書いたことだが、僕はいわゆるテーマ主義を掲げるつもりはないので、一言でどういった一貫性があるかは説明できない。ただ、変わっていない。一貫している。

それは僕が劇団を旗揚げするずっと前から、たぶん芝居の道を志した高校生の時分から、ずっと変わっていない。
かっこつけているだけかもしれないが、それは僕が何物にも踊らされていないことの宣言にもなるのではないか。

これは、誰かに向けた皮肉ではない。
ただし、同年代の、かつての友人たちに向けた宣言でもある。

今日はなんだか話が逸れやすい。
もう少し頭を冷やして、次回の更新にそなえる。
この記事のURL | 【雑記】 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
劇団印象派を旗揚げしてから、ひとまず振り返って
- 2008/06/24(Tue) -
劇団を旗揚げしてからもう二年が経つ。
いや、やっと二年と言ったほうが正しいのかもしれない。

二年という歳月は、社会的に見れば限りなく無に近いところがある。
劇団印象派が世間と接点を持った機会は、たった四本の公演に過ぎない。

それでも、僕や劇団員の短い人生からすれば、とても長い時間だ。

その期間に、どれほどの出会いがあっただろう。
全公演の観客数や、その時に手伝ってくれた人たち、すべてを延べ数にしても二千人に満たない。

それにしたって、すでに千五百人以上もの人が劇団印象派に関わってくれた。

社会的な評価がどうであれ、僕らにとっては大きな事実である。

出会いがあれば、別れもあった。
たった四本の公演でも、出演予定の役者が降板する事態にも見舞われた。

集団創作というだけでなく、劇団というスタイルは更に厄介なものである。

数々の期待があり、裏切りがあり、失望があった。
もちろん、僕が失望されたこともあるだろう。

今現在、劇団印象派の正式な劇団員は十人に満たない。
かと言って、二十人や三十人いることが望ましいわけでもない。

今いる劇団員の多くが僕を信頼してくれていると思うし、僕の始めた「夢」に関わってくれている。
もちろん、それぞれの「夢」を持ちながら。

劇団を旗揚げしたばかりの頃は、僕の考える「劇団」というカタチが先行していた。
今から思えば些細なことなのだが、小さなことに執着し、変なことばかりに拘り過ぎていた。

劇団員それぞれに対する接し方一つにしても、頭が固かったし、どこかで等しく機嫌をとっていたのかもしれない。

その結果、僕自身にも不必要な気苦労が生じていたし、当時の劇団員それぞれにとっても、それは計り知れないものがあっただろう。

それを反映させているかのように、作品にも「無理」が生じていた。
作品とそれに関わる劇団員たちとの変な距離感、それが僕のいう「無理」だ。

それは、つい先日の公演でも垣間見えることである。
簡単に解決する類のものではないのだろう。

但し、僕の実感としては、その距離は確実に埋まりつつある。
今の僕に言えるのはそれだけだ。まだまだこれから、ではある。

僕は、ようやく最近になって、変に「劇団」というカタチを意識しなくなった。
劇団員それぞれに対しても、かつてのように構えてはいないつもりだ。

今いる劇団員の話に戻るが、冷静に判断して、それぞれの能力に対しては絶対的な信頼を寄せるレベルではないと思う。
もちろん、これは各人が十分に理解している。

しかし、そんな彼らに可能性を感じないのかと訊かれれば、当然ながらそんなことはない。
当たり前のことだが、可能性を感じない人間とは何をやってもつまらないものだ。

能力だけで集まった集団というものは、どこか悲しげである。
ヒトの集まりには、それ以外のものも必要だと思う。

もちろん、可能性だけにいつまでも安住するつもりはない。それが実を結ばなければ、皆無に等しい。

しかしそれ以前に、僕のように「劇団」を立ち上げた場合、同じくして「夢」を追い続けることが出来るのか、それも重要になるのではないか。

こんなふうに言葉にすると安っぽく聞こえるからいけない、もっと大切なことなのだ。

僕は劇団印象派というものに僕自身の「夢」を託して、まず最初の決断をした。
これからも活動(行動)していく為には、もっと沢山の、無数の決断を迫られる。
僕は、それをしていく。それはわかりきったことなのだ。問題はそれから。
劇団員それぞれが、その決断を信頼できるのか。その決断を下す僕を信頼できるのか。
そして、自分たちも多くの決断をしていけるのか……

「劇団」というものは厄介なものである。しかし、その中に可能性も感じる。
僕は劇団員すべての父的存在ではないし、慈愛に満ちた存在でもない。
劇団員すべての面倒は見られないし、そんな立場になるつもりはない。
しかし、希望はしている。劇団員それぞれに、多くのことを希望している。
劇団員たちも、僕にそれをしている。それがわかっている。

僕は、そのすべてに応える結果を出すつもりだ。その為の決断をしていく。
劇団員たちにもそれを望んでいる。

時には、自分の彼氏の言葉より僕の言葉を選択しなきゃいけないこともあるだろう。
笑っちゃうようなことだけど、女の子にはつらいのかもしれないけど、僕の立ち居地はそんなところである気がする。

少しずつではあるが、劇団印象派は変化している。
僕自身も、変化している。劇団員も変化している。

それを反映して、作品も変化しつづけていく……
この記事のURL | 【雑記】 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
僕が 「死」 に拘る理由
- 2008/06/07(Sat) -
僕の書く芝居では、いつも必ず誰かが死ぬ。若しくは、すでに死んでいる。

何か事前にそういう取決めをして、毎回のように登場人物を殺しているわけではない。
もちろん作中の人物を殺すことに快感など感じていないし、心を痛める瞬間すらある。

たとえ実在しない人物とはいえ、自分の書いた1行で人が死んでしまうのは、なかなかに後味が悪いものだ。

それでも、こうして彼らの命を奪ってしまうのには理由がある。

青臭いことを言うようだが、僕が書きたいものは、一貫して人の「生き様」だ。
そして、その役割を担うのは架空の登場人物たちである。しかも上演時間が1時間半~2時間というタイムリミットまで設けられているのだ。

そんな条件下で人間の「生き様」を描くのには、それ相応の工夫なり労力が必要だ。
では、一体どのような趣向を凝らせばいいのか……

そこで僕が意識したのは、 「生」 と 「死」 の対比だ。
自分で言うのもなんだが、もちろんこれは荒業的な手段でもある。

しかし、僕は 「死」 というテーマから 「生」 というテーマを導き出すことは間違っていないと思う。
かつての能がそうであったように、それは確実に 「生」 というものを見直す手段となる。

光が影を生み出すというのが一般的な考え方かもしれないが、それとは逆に、影によって光の存在が裏付けられるということもあるのではないか。

これは余談だが、僕が初めて身近な人の死に触れた時、それは同時に「生きる」ということ自体の再確認でもあったように思う。
「生」 というものがどういうものなのか、言葉には出来ない実感として、確かに感じた覚えがあるのだ。

不必要に話が複雑化してしまったかもしれないが、要してしまうと、僕が 「死」 に拘る理由とはなんなのか……

それは限りない 「生」 への執着である。

(空覚えで申し訳ないのだが、北野武が何かの本に「一生懸命に死ぬことは、そのまま一生懸命に生きることだ」と書いていたのが思い出される。)

まあ、僕の友人に言わせれば、毎回のように登場人物が死ぬのは可哀想だという意見もある。
そして、最近の僕は少なからずそれに同意する考えだ。

そろそろ、荒業なしで勝負しなければならない時がきている……
この記事のURL | 【雑記】 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
風の旅人
- 2008/05/27(Tue) -
今年の夏風邪はしつこいらしい。
かくいう僕も、風邪が長引いている。かれこれ一週間以上になるのではないか。

以前に比べて、微熱程度の小さな風邪はひきにくくなった。
その代わりと言ってはなんだが、ここ数年に患った風邪は、なかなかに手強い。

毎回のように高熱38度以上は当たり前、先日に至っては39度を超える始末。
もはや、ただの風邪とは思えぬほどの脅威となっている。

一昔前までは風邪をひいて学校などを休むと、本来なら授業を受けている時間に家にいることへの優越感というか、小さな自由を勝ち取ったようなそんな気持ちになっていたのだが、今はそうも言っていられない。

それが芝居の公演期間だったら尚更だろう。
今が特別重要な時期でなかったのが不幸中の幸いだ。

いきなり変なことを言い出すようだけど、僕にとって、あの高熱にうなされている瞬間は少し魅力的でもある。

もちろん苦しむのは嫌なのだが、高熱にうなされてどうしようもなくなった時、大袈裟に言ってしまえば人間が普段よりも一歩 「死」 に近づいた時、日常の生活では考えられなかったもう一つの視点に気付かされるような気がする。

いくら考えても合致することのなかった事柄の一つ一つにつながりを見出せる、そんな瞬間がある。
こんな時だからこそ普段は目もくれないジグソーパズルに手をつける、というか。

人間は、必ずしも歩き続けていればいいというものではない。
だからと言って、充電などと言い訳して休み続けることも違うような気がする。

当然のことながら選択肢はその二つだけというわけではないのだが、大きく分けたその二つの中で、どうバランスを計るかということは難しいことである。

高熱にうなされる中で、いろんなことを考えた。いろいろなことに気付いた。
時には病中特有の感傷的な気分に浸りながら、時には妙に冷静になってみたり。

そんなことを考えながら、未だに夏風邪が治らない。
この記事のURL | 【雑記】 | CM(2) | TB(0) | ▲ top
ヒッチコックの言葉
- 2008/05/03(Sat) -
先日、友人から面白い話を聞いた。

それは映画界の巨匠アルフレッド・ヒッチコックと、彼の作品に出演したある女優とのエピソードで、彼がその女優に放った一言が非常に興味深い。

その女優は撮影中、幾度となく真摯に、演技に対する質問を繰り返したらしい。
そうした彼女に返したヒッチコックの言葉が……

「たかが映画じゃないか」

これは凄まじい一言である。
ヒッチコックほどの作り手が、この言葉をどういう心境で語ったのか。

いや、それを考えることすら馬鹿らしくなる一言である。
どんなにそれっぽい言葉で取り繕った演劇論よりも格好いいし、重みがある。

そして同時に、僕はこの台詞を口にしたヒッチコックを羨ましく思う。
僕にもいつか、似たようなシチュエーションに置かれた時に、同じ言葉を語ることができるだろうか。

現状から考えれば、僕には口が裂けても「たかが芝居じゃないか」などとは言えない。
そのぐらいまで言える環境は素敵なことだと思う。

もちろん、僕にだって作品をつくる上での考えだとか思いだとかはあるわけで、それを語りだしたら夜を明かしてしまうだろう。
しかし、それは作品づくりを支えることではあっても、作品自体を支えるものではない。

どんなに熱いメッセージを内に秘めようと、作品が面白くなければ意味がないのである。
作品をつくることは最高の遊びだし、それを観ることで観客にも存分に遊んでもらいたい。

ただし、「遊ぶ」ことと「ふざける」ことが根本的に違うように、本気で「遊び」を楽しむためには、ある種の「ルール」が必要である。スポーツの試合にもそれが必要であるように。ルールがなくては、ボクシングなどはただの暴力になってしまう。

僕が以前に「文化」をつくりたいと書いたのは、ずばりそのことなのだ。
劇団印象派という集団を使って「システム」を作りたいのではない。「ルール」を見つけたいのだ。

…………。

僕がヒッチコックのように「たかが芝居じゃないか」と口にするまでには、かなりの時間が必要そうだ。
この記事のURL | 【雑記】 | CM(2) | TB(0) | ▲ top
前ページ | メイン | 次ページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。